「居場所」ということを中学の頃から考え始めるようになった。友達関係とか恋愛関係とか、それこそ歌詞を書くようにとりとめもない言葉をノートに書き殴っていた。そこには将来への不安も投影されていただろうし、もしかしたらこれからの自分への期待も、少なからずあったように思う。
高校1年の冬に路上ライブを初めて経験して、僕の中で何かが弾けた。ここが僕の居場所なんだと思った。実感としては、部活代わりの楽しい遊び場を見つけた、というくらいのことだったのだが、それでも、僕にとっては大切なものだった。
いつのことだったか、高校時代の三本柱は「友達」「彼女」「路上」だった、というようなことを、これもノートか何かに書いた記憶がある。改めて、今思い返してみても、たしかにそうだったなと思う。そして、その3つ以上に大切なものが人生の中で他にあるだろうか? いや、あるのだろうが、僕にはこれがほとんどすべてのような気がしてならない。「彼女」の部分を「恋人」や「伴侶」に、「路上」の部分を「夢」でも「仕事」でも、夢中になっている具体的な何かに置き換えてみてほしい。人の一生にとってかけがえのないものは、結局この3つに集約されるのではないだろうか。
そのような、方位磁石とでも言うべき指針を手にすることができたという意味においても、僕にとって高校時代は重要な期間だった。
高校3年の夏休みに、一度解散ライブを行った。もちろん路上で。部活が終わって、受験勉強しなきゃ、そんな感じだった。まさか音楽でこのままやっていけるとは思っていなかったので、とりあえず大学に行こうと。そして晴れて大学生になったらもう一度、今度はもっと真剣にやろう、というのが僕と良樹の共通認識としてあった。
しかし結局復活するのに2年半を要することになった。二人とも浪人することになったからだ。
僕と良樹の家は近所にあって、いつも公民館で勉強をしていた。勉強に煮詰まると二人で廊下のベンチに座ってよく話をした。話す内容は、これからのいきものがかりのことばかりだった。
大学に入ったら本格的に活動しよう。
もう路上でやってるだけではダメだ。
ちゃんとやるならライブハウスに出ないといけない。
弾き語りというのも考えないと。
バンド・スタイルでもっといろいろな音楽を追求しよう。
ああしたい、こうしたい……話すことは尽きなかった。たぶん、浪人生活の鬱憤がたまっていたのだろう。その反動で音楽への熱意と夢は、どんどん膨らむばかりだった。
春が来て僕も良樹もそれぞれの大学に進学でき、1年生となった。そして現役で合格した聖恵と同学年になった。さあ、これからだ。そんなタイミングで、聖恵は歌への自信を失くしてしまい、歌いたくない、と漏らすようになった。彼女は音大の声楽科に進学したのだが、簡単に言うと、彼女の自由でのびのびした歌い方と、大学が教える歌い方は合わなかった。そのジレンマに苦しんでいた。
僕らにとっては聖恵以外のボーカリストは考えられなかった。良樹は絶対にやりたい。聖恵はできない。けっこうごちゃごちゃしてしまった。
僕はそんな状況に身を置きながら、じつはこんなことを考えていた。旅がしたいな……。大学に行って、やりたいことが2つあった。ひとつは、いきものがかりで音楽活動をすること。そしてもうひとつが当てもなく旅をすることだった。行くなら、このごちゃついているタイミングしかないだろうと思った。
良樹は無理矢理にでも聖恵を説得しようと何度も試みたけれど、そうなるとあの二人はぶつかってしまうというのが僕にはわかっていた。僕としては、聖恵は何があっても歌からは離れられない人だろうなと思っていた。だから静観することに決めた。
僕が中米に旅立ったのは、大学1年の終わりだった。そして数ヶ月の旅を経て思ったのは、僕が戻るべき場所はいきものがかりしかないということだった。
そろそろ聖恵を説得してみようかな--。僕は僕の場所を目指して帰国の途についた。
高校1年の冬に路上ライブを初めて経験して、僕の中で何かが弾けた。ここが僕の居場所なんだと思った。実感としては、部活代わりの楽しい遊び場を見つけた、というくらいのことだったのだが、それでも、僕にとっては大切なものだった。
いつのことだったか、高校時代の三本柱は「友達」「彼女」「路上」だった、というようなことを、これもノートか何かに書いた記憶がある。改めて、今思い返してみても、たしかにそうだったなと思う。そして、その3つ以上に大切なものが人生の中で他にあるだろうか? いや、あるのだろうが、僕にはこれがほとんどすべてのような気がしてならない。「彼女」の部分を「恋人」や「伴侶」に、「路上」の部分を「夢」でも「仕事」でも、夢中になっている具体的な何かに置き換えてみてほしい。人の一生にとってかけがえのないものは、結局この3つに集約されるのではないだろうか。
そのような、方位磁石とでも言うべき指針を手にすることができたという意味においても、僕にとって高校時代は重要な期間だった。
高校3年の夏休みに、一度解散ライブを行った。もちろん路上で。部活が終わって、受験勉強しなきゃ、そんな感じだった。まさか音楽でこのままやっていけるとは思っていなかったので、とりあえず大学に行こうと。そして晴れて大学生になったらもう一度、今度はもっと真剣にやろう、というのが僕と良樹の共通認識としてあった。
しかし結局復活するのに2年半を要することになった。二人とも浪人することになったからだ。
僕と良樹の家は近所にあって、いつも公民館で勉強をしていた。勉強に煮詰まると二人で廊下のベンチに座ってよく話をした。話す内容は、これからのいきものがかりのことばかりだった。
大学に入ったら本格的に活動しよう。
もう路上でやってるだけではダメだ。
ちゃんとやるならライブハウスに出ないといけない。
弾き語りというのも考えないと。
バンド・スタイルでもっといろいろな音楽を追求しよう。
ああしたい、こうしたい……話すことは尽きなかった。たぶん、浪人生活の鬱憤がたまっていたのだろう。その反動で音楽への熱意と夢は、どんどん膨らむばかりだった。
春が来て僕も良樹もそれぞれの大学に進学でき、1年生となった。そして現役で合格した聖恵と同学年になった。さあ、これからだ。そんなタイミングで、聖恵は歌への自信を失くしてしまい、歌いたくない、と漏らすようになった。彼女は音大の声楽科に進学したのだが、簡単に言うと、彼女の自由でのびのびした歌い方と、大学が教える歌い方は合わなかった。そのジレンマに苦しんでいた。
僕らにとっては聖恵以外のボーカリストは考えられなかった。良樹は絶対にやりたい。聖恵はできない。けっこうごちゃごちゃしてしまった。
僕はそんな状況に身を置きながら、じつはこんなことを考えていた。旅がしたいな……。大学に行って、やりたいことが2つあった。ひとつは、いきものがかりで音楽活動をすること。そしてもうひとつが当てもなく旅をすることだった。行くなら、このごちゃついているタイミングしかないだろうと思った。
良樹は無理矢理にでも聖恵を説得しようと何度も試みたけれど、そうなるとあの二人はぶつかってしまうというのが僕にはわかっていた。僕としては、聖恵は何があっても歌からは離れられない人だろうなと思っていた。だから静観することに決めた。
僕が中米に旅立ったのは、大学1年の終わりだった。そして数ヶ月の旅を経て思ったのは、僕が戻るべき場所はいきものがかりしかないということだった。
そろそろ聖恵を説得してみようかな--。僕は僕の場所を目指して帰国の途についた。