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不懂就问兄弟们

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兄弟们TNO里坎通将领人物介绍有没有啊,除了栗林忠道和永野茂门其他都搜不到资料啊
还有坎通暴乱在现实是否参考了红港运动啊
下意识感觉这两个有点关联


IP属地:山东来自Android客户端1楼2024-08-28 00:10回复
    第二个嘛感觉大概率不是完全没关系


    IP属地:湖北来自iPhone客户端2楼2024-08-28 03:38
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      现在广东的将领qa说过都是瞎给的,有人问栗林忠道为什么在广东,广东组的也没有啥理由,就是随便整的


      IP属地:河南来自iPhone客户端3楼2024-08-28 09:06
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        第一条的建议:去维基百科找找,第二条的建议:可能没有


        IP属地:河北来自Android客户端4楼2024-08-28 18:01
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          你猜举起黑旗和「注意 煙霧彈」是哪里来的


          IP属地:澳大利亚来自iPhone客户端5楼2024-08-28 19:40
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            为什么夸克上搜不到红港运动,还是说它的别名叫省港大罢工


            IP属地:福建来自Android客户端6楼2024-08-28 22:16
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              日文资料,机翻了一下,凑合着看吧

              渡部敬太郎 わたなべ けいたろう(1927 昭和2年~1997 平成9年)
              原文:
              日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸軍予科士官学校卒業(第60期)。第18代陸上幕僚長、第15代統合幕僚会議議長。息子渡部直己は文芸評論家で、元・早稲田大学文学学術院教授。陸海空自衛隊を通じ初の昭和生まれの幕僚長。
              福島県相馬中学から仙台陸軍幼年学校を経て陸軍予科士官学校を卒業、陸軍士官学校本科(第60期)に入校直後に終戦を迎える。1950年(昭和25年)、警察予備隊に2等警査(2等陸士)として入隊する。その後は在ソビエト日本大使館付防衛駐在官、第2普通科連隊長、陸幕人事部長、第10師団長と、陸上自衛隊の成長とともに歩んでいった。
              「ソビエト防衛駐在官を経験し、ソ連はどういう国か、共産主義とは何かがよくわかり、自由な日本を守ることの意義を肌で痛感した」と語っている。また、ソ連軍軍人から「自衛官は軍人ではない」旨の暴言を吐かれて侮辱された経験をもつ。
              北部方面総監在任中、総監部に各級部隊指揮官を一堂に集めて訓育を実施し、防衛駐在官としての経験から「ソ連軍人にとっての真善美とは、力のみである。侵略を阻止できるのは、北部方面隊の実力のみである。」と断言。ソ連極東軍の想定侵入時期に合わせ訓練演習サイクルを変えるなど、ソ連軍をによる北海道への着上陸に備えた実戦的な演習を矢継ぎ早に企画、実施した。
              1982年(昭和57年)10月、渡部は北部方面隊の実力を国民に広報することで、ソ連極東軍への抑止効果を得ることを目的として、北海道内選出の国政・地方両議員団および道民1万人を招いて実弾を用いた「火力戦闘演習」を統裁。その翌年に行われた「北斗演習」では、大演習場にアメリカ陸軍を招き、陸上幕僚長として北部方面隊を統裁した。
              翻译:
              日本陆军军人、陆上自卫官。陆军预科士官学校毕业(第60期)。第18代陆上幕僚长、第15代统合幕僚会议议长。儿子渡部直己是文艺评论家,原早稻田大学文学学术院教授。陆海空自卫队首位昭和时期出生的幕僚长。
              从福岛县相马中学开始,经过仙台陆军幼年学校,毕业于陆军预科士官学校,进入陆军士官学校本科(第60期)后不久就迎来了战争结束。1950年(昭和25年),作为警察预备队2等警察(2等陆士)入伍。之后又担任日本驻苏联大使馆的防卫驻官员、第2普通科联队长、陆幕人事部长、第10师团长等职务,与陆上自卫队的成长相伴而行。
              他说:“我曾担任过苏联防卫驻官员,清楚地了解了苏联是一个怎样的国家,康米ZY是什么,切身体会到了保卫自由日本的意义。”此外,他还经历过苏联军人以“自卫队军官不是军人”为宗旨的辱骂侮辱。
              在担任北部方面总监期间,在总监部将各级部队指挥官集中一堂实施训育,以作为防卫驻官的经验“对苏联军人来说真善美,只有力量。能阻止侵略的,只有北部方面队的实力。”断言道。根据苏联远东军的设想入侵时期改变训练演习周期等,接连不断地策划并实施了针对苏联军队从北海道登陆的实战性演习。
              1982年(昭和57年)10月,渡部通过向国民宣传北部方面队的实力,以获得对苏联远东军的抑制效果为目的,邀请北海道内选出的国政、地方两议员团及1万名道民使用实弹进行了“火力战”。统裁斗演习”。在第二年举行的“北斗演习”中,将美国陆军邀请到大演习场,作为陆上幕僚长统领北部方面队。


              IP属地:上海7楼2024-08-29 10:06
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                有末精三 ありすえ せいぞう (1895 明治28年~1992 平成4年)

                原文:
                日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
                北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる。
                上川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を優等(3番/536名)で卒業し、恩賜の銀時計を受けた。同期には、河村参郎、後藤光蔵、稲田正純、鎌田銓一、額田坦、小松光彦、佐藤賢了、寺田雅雄など昭和の陸軍を牽引した将軍を多く輩出している。旭川に衛戍する歩兵第25連隊附としてシベリアへ出征する。
                1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)も優等で卒業し、恩賜の軍刀を受けた。
                1931年(昭和6年)には、歩兵第5連隊大隊長(歩兵少佐)を最年少で勤めている。この時、同僚の大隊長として7期先輩にあたる相沢三郎歩兵少佐(陸士22期)と知り合う。
                1932年(昭和7年)、荒木貞夫中将(陸士9期)が陸軍大臣に就任すると、その陸軍省副官兼陸相秘書官に就任する。以降、林銑十郎陸相(陸士8期)と二代にわたり秘書官を務めた。
                1935年(昭和10年)8月、陸軍省軍務局勤務となった有末は、相沢三郎歩兵中佐が陸軍省軍務局長永田鉄山少将(陸士16期首席)を白昼に惨殺する(相沢事件)に遭遇する。
                二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、陸軍省軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。
                1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
                戦後は、ソ連や中国の動向を注視していた占領軍の諜報部参謀第2部(G2)との関係を急速に深め、有末の働きかけにより、大本営の参謀たちは諜報部に次々とスカウトされていった。彼らは諜報部の意向を受けてソ連や中国などへのスパイ活動に従事し、戦犯となることを回避した。
                翻译:
                日本陆军军人,最终军衔为陆军中将。
                北海道出身。有末孙太郎(村长·京极农场经理·屯田工兵大尉)的长子。
                先后就读于上川中学、仙台陆军地方幼年学校、中央幼年学校,1917年(大正6年)5月,以优等(3号/536名)的成绩从陆军士官学校(29期)毕业,获得恩赐的银表。同期涌现出了河村参郎、后藤光藏、稻田正纯、镰田铨一、额田坦、小松光彦、佐藤贤了、寺田雅雄等众多引领昭和陆军的将军。作为卫戍旭川的步兵第25联队附出征西伯利亚。
                1924年(大正13年)11月,在陆军大学校(36期)也以优等成绩毕业,受到恩赐的军刀。
                1931年(昭和6年),担任步兵第5联队大队长(步兵少佐),成为最年轻的步兵。这时,结识了作为同僚大队长的第7期前辈步兵少佐相泽三郎(陆军士官学校第22期)。
                1932年(昭和7年),荒木贞夫中将(陆军士官学校第9期)就任陆军大臣,他就任陆军省副官兼陆相秘书官。之后,与林铣十郎陆相(陆军士官学校第8期)两代担任秘书官。
                1935年(昭和10年)8月,在陆军省军务局工作的有末,遭遇了相泽三郎步兵中校在光天化日之下残忍杀害陆军省军务局局长永田铁山少将(陆军士官学校第16期首席)的事件(相泽事件)。
                “二·二六事件”以后,军队内部掀起了强烈的“下克上”风潮,据说在陆军省军务课课长时期,他是阿部内阁的实际成立者。
                1947年(昭和22年)11月28日,被临时指定公职放逐。
                战后,与密切关注苏联和中国动向的占领军谍报部参谋第2部(G2)的关系迅速加深,在有末的推动下,大本营的参谋们陆续被谍报部发掘。他们按照谍报部的指示,对苏联和中国等地从事间谍活动,避免成为战犯。


                IP属地:上海8楼2024-08-29 10:13
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                  竹田五郎 たけだ ごろう (1921 大正10年~2020 令和2年)

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                  日本の陸軍軍人、航空自衛官、軍事評論家。最終階級は陸軍では陸軍大尉、航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長。
                  福岡県出身。福岡県立中学修猷館を2年で中退し、広島陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校を経て、 陸軍航空士官学校(第55期)を卒業し、操縦の道に進んだ生粋のパイロット(操縦者)である。軽爆撃機の操縦課程修了後、飛行第90戦隊に配属され、1942年(昭和17年)9月から作戦に参加。九九式双軽爆撃機に搭乗し、中国戦線に従軍した。太平洋戦争後期には、飛行分科を軽爆から戦闘に転科し、戦闘機操縦者として飛行第244戦隊に配属された。第244戦隊では三式戦闘機「飛燕」・五式戦闘機(キ100)に搭乗し、首都防空の任務についた。空襲の都度出撃し、B-29を1機撃墜している。ある時は夜間戦闘中に被弾し、松戸飛行場に不時着した際、片翼は穴だらけで「これでよく無事に生還できたものだ」と同僚に言われたという。戦隊は各地を転戦し、終戦まで本土防空戦に従事した。最終的に第244戦隊では第2飛行隊長(とっぷう隊。旧第2中隊の後身)を務めている。
                  陸軍大尉で終戦を迎えたが、戦後は公職追放となり、職を求め各地を転々とし、故郷の福岡に帰ってからは平和台球場で売店を経営しパンや菓子を売っていたこともあった。同期生から警察予備隊の受験を勧められ、飛行機に乗れそうだと1951年(昭和26年)12月、警察予備隊に入隊。保安隊では操縦課程の第1期生、保安隊時代にはL-16を旭川に空輸した。戦後、北海道の空を日の丸のついた飛行機で初めて飛んだことが自慢だという。その後、航空自衛隊発足により、転官。ジェット機操縦課程を経て戦闘機操縦課程入校のため米国へ留学し、帰国後は第1航空団で教官や第1飛行隊長を務めた。その後は第6航空団司令、南西航空混成団司令等の要職を歴任し、1976年(昭和51年)9月6日に発生したベレンコ中尉亡命事件の際は北部航空方面隊司令官として対応した[2]。航空総隊司令官を経て1978年(昭和53年)3月、第14代航空幕僚長に就任。さらに翌1979年(昭和54年)8月には第12代統合幕僚会議議長に就任した。
                  統幕議長在任中の1981年(昭和56年)、雑誌記事(月刊誌宝石3月号)に「徴兵制を違憲とする政府統一見解」及び「防衛費GNP比1%枠」の二点に異を唱え専守防衛政策を批判したとされる記事が掲載された。これに対し社会党は衆議院予算委員会において竹田の懲戒免職を要求、同委員会は紛糾した。大村襄治防衛庁長官が竹田を戒告処分とし、これを受けて責任を取る形で同年2月16日付で退官 (ちなみに2代前の栗栖弘臣も、有名な「超法規行動」発言が原因でやはり解任されている)。民間では軍事評論家となる。
                  保守系日刊紙『世界日報』のコラム「ビューポイント」の常連寄稿者の一人である。
                  翻译:
                  日本陆军军人、航空自卫官、军事评论家。陆军的最终军衔是陆军大尉,航空自卫队的统合幕僚会议议长空将。第14任航空幕僚长、第12任统合幕僚会议议长。
                  福冈县出身。在福冈县立中学学习2年后中途退学,先后就读广岛陆军幼年学校、陆军预科士官学校,毕业于陆军航空士官学校(第55期),是一名真正的飞行员。完成轻型轰炸机的驾驶课程后,被分配到飞行第90战队,1942年(昭和17年)9月开始参加作战。搭乘九九式双轻轰炸机,在中国前线从军。太平洋战争后期,飞行分科由轻爆转为战斗,作为战斗机驾驶员被分配到飞行第244战队。在第244战队搭乘三式战斗机“飞燕”·五式战斗机(机100),担任首都防空的任务。每次空袭都出击,击落过一架B-29。有一次在夜间战斗中被击中,迫降在松户机场时,因为单翼全是窟窿,被同事说“这样还能平安生还”。战队转战各地,从事本土防空战直到战争结束。最终在第244战队中担任第2飞行队长(顶风队。原第2中队的后身)。
                  他以陆军上尉的身份迎来了战争的结束,战后他被开除了公职,辗转各地寻找工作,回到故乡福冈后在和平台球场经营小卖部,卖面包和点心。1951年(昭和26年)12月,同届生劝我参加警察预备队的考试,我觉得可以坐飞机,于是就加入了警察预备队。在保安队是驾驶课程的第1期生,在保安队时曾将L-16空运到旭川。战后,他第一次乘坐带有日章旗的飞机飞过北海道的天空,这让他感到非常自豪。之后,由于航空自卫队的成立,转官。通过喷气式飞机驾驶课程后,为了学习战斗机驾驶课程留学美国,回国后在第1航空团担任教官和第1飞行队队长。之后历任第6航空团司令官、西南航空混成团司令官等要职,1976年(昭和51年)9月6日发生的别连科中尉亡命事件时作为北部航空方面队司令官应对。曾任航空总队司令官,1978年(昭和53年)3月就任第14代航空幕僚长。翌年1979年(昭和54年)8月就任第12代统合幕僚会议议长。
                  在任统幕议长期间的1981年(昭和56年),杂志报道(月刊宝石杂志3月号)刊登了对“征兵制违宪的政府统一见解”以及“防卫费GNP比1%”这两点提出异议,批判专守防卫政策的报道。对此,社会党在众议院预算委员会上要求罢免竹田,该委员会发生了纠纷。防卫厅长官大村襄治给予竹田警告处分,竹田因此承担责任,并于同年2月16日退官(顺便一提,前两任的栗栖弘臣也因发表著名的“超法规行动”言论而被解职)。在民间成为军事评论家。
                  他是保守派日报《世界日报》专栏“viewpoint”的常客之一。


                  IP属地:上海9楼2024-08-29 10:21
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                    贺阳宫恒宪王 賀陽宮恒憲王 かやのみや つねのりおう(1900~1978)

                    原文:
                    日本の旧皇族、陸軍軍人。神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子。賀陽宮第2代当主。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子。戦後皇籍離脱した。香淳皇后(昭和天皇后)の従兄にあたる。
                    王は軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。また、終戦が決まると皇族の臣籍降下も主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲(かや つねのり)となる。臣籍降下直後に公職追放となる[1](1952年(昭和27年)解除)。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカ・ニューヨーク、ヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王や久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。
                    翻译:
                    日本旧皇族、陆军军人。神宫祭主贺阳宫邦宪王的第一王子。贺阳宫第2代当主。官位升为陆军大学校长陆军中将大勋位功三级。妃子是九条道实公爵的五女敏子。战后脱离皇籍。是香淳皇后(昭和天皇后)的堂兄。
                    作为军人晋升为陆军中将,历任东京、名古屋各部队的师团长和陆军大学校长等,很早就向昭和天皇提出了终结大战的圣断。此外,他还主张,一旦战争结束,皇族就会被降为臣籍。1947年(昭和22年)10月14日臣籍下降,三天后在区役所办理居民手续成为贺阳恒宪。臣籍被降后马上被开除公职(1952年(昭和27年)解除)。作为“平民亲王”深受国民爱戴,生活简朴。另一方面也被称为“棒球亲王”,1934年(昭和9年)在美国纽约的洋基体育场观看了比赛。战争结束后,担任御歌所所长,之后又担任日清生命社友会会长等公职。国王的宅邸曾经是闲院宫载仁亲王和久迩宫邦彦王居住的地方,后来成为千鸟渊战殁者墓苑。


                    IP属地:上海11楼2024-08-29 10:35
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