伊織は宮本武蔵の推挙により寛永3年(1626年)15歳の時に播州明石藩主・小笠原忠真(当時忠政)の近習に出仕、出頭人となり弱冠20歳で執政職(家老)。翌9年(1632年)肥後熊本藩主加藤忠広の改易に伴い肥後へ移封された細川忠利の跡の豊前小倉藩へ移封の時、2500石。同15年(1638年)の島原の乱には侍大将と惣軍奉行を兼ね、戦功により1500石加増、都合4000石。家中の譜代・一門衆を越えて筆頭家老となる。
その出自は「小倉宮本家系図」や由緒書に記されている通り、播磨国印南郡米堕邑、田原久光の次男であったことが、伊織が出身地で再建した泊大明神社や米田天神社の棟札(「泊神社棟札」)記載「田原家傳記」の発見などでほぼ確実とされている。
また、伊織は武蔵没後9年目の承応3年(1654年)小倉郊外赤坂・手向山の山頂に巨石をもって武蔵の彰徳碑を建てている。その小倉碑文(漢文)一千百余文字は以後の『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記の基となり、石碑は後に歌川広重の「諸国名所百景」にも描かれる豊前の名所となった。「巌流島の決闘」や「吉岡一門との決闘」などもこの碑文によって史実と考えられている。
伊織の子孫は、代々小倉小笠原藩の筆頭家老を世襲した。宮本家の知行地であった手向山山麓に、義父武蔵、伊織を始め、累代の墓所がある。なお、宮本家の子孫は、現在も小倉藩士族の末裔として、小倉を中心に居住している。
なお、宮本武蔵には伊織の前に三木之助(宮本三木之助)という養子がおり、姫路藩本多家に仕えていたが、寛永3年に主君本多忠刻に殉死している。
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