広厳寺迹(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
広厳寺(こうごんじ)は、かつて冲縄県那覇市若狭町1丁目に位置(外部リンク)した临済宗寺院です。山号は万年山。开山は芥隠承琥(?~1495)で、景泰年间(1450~57)に建立されました。建立当初は冲縄県那覇市久茂地町1丁目の久茂地川左岸に位置していましたが、万暦37年(1609)萨摩の琉球侵攻によって焼失。若狭町1丁目の护国寺の东南、天尊庙に隣接して再建されました。琉球処分后に廃寺となりました。
広厳寺の建立
広厳寺の开山芥隠承琥は日本の五山僧であったが、「海南の琉球は小国であるとはいえ、人は清廉で根器がある。」といい、景泰年间(1450~57)に海を越えて琉球に至った(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。芥隠承琥禅师(?~1495)はかつてこの地を选び、居住した。尚泰久王(位1454~60)は芥隠承琥の道风に帰依し、ここに禅寺を创建して住まわせた(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺记)。
広厳寺が建立された地は、那覇の西海岸沿を少し入ったところになる。那覇は浮岛と呼ばれ、现在でこそ首里とは埋立や土砂の堆积によって陆続きとなっているが、芥隠承琥が来琉した当时は、首都首里の西に位置する东西1km、南北1kmの岛にすぎなかった。ここは首里の西に位置することから首里の外港として栄え、国际交易港となっていた。琉球は中国・日本・朝鲜・东南アジアの中継贸易国として栄えたから、那覇の付近の久米村には中国・朝鲜からの移民などが雑居していた。
広厳寺が位置した地点は、东恩纳寛淳(1882~1963)はその著『南岛风土记』において、「泉崎桥から県庁通りに曲がる河岸、现在川畑鉄工所附近を「コーガン」屋敷と称へ、その辺一帯を「コーガン」と字称してゐるが、或は広厳寺の最初の所在で、再兴の时に波ノ上に移転したのではないかとも考へられる」と指摘している(东恩纳1950)。この地点は、现在の冲縄県那覇市久茂地町1丁目の久茂地川左岸のことであり、浮岛と称された时代の那覇の南岸にあたる。芥隠承琥が最初に拠点を构えた地点がここであったのは、贸易港として栄えた那覇で交易のため滞在する日本人などと接点から、やがては琉球全体への活动への布石とみなしていたとみられる。芥隠承琥は広厳寺をはじめとして、普门寺・天龙寺・天王寺・崇元寺・龙福寺の开山となり、とくに円覚寺の开山として名高い。
景泰7年(1456)春には铜钟1口が鋳造された。铭文は相国寺住持の渓隠安潜(生没年不明)が撰文したもので、「开基沙门承琥谨记之」とあるように、鋳造の奉行・大工の署名部分は芥隠承琥が撰文した(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺记)。
広厳寺の移転と廃寺
広厳寺は万暦年间(1573~1619)兵乱(萨摩の侵攻)の后、廃朽してしまったという(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺记)。このことから、広厳寺は萨摩の琉球侵攻に际して焼き払われた可能性が指摘されている(知名2008)。尚宁王(位1589~1620)は立愿して広厳寺を再兴したという(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺记)。前述の通り、もとは现在の冲縄県那覇市久茂地町1丁目の久茂地川左岸に位置していたが、再兴に际して现在の冲縄県那覇市若狭町1丁目の护国寺の东南を天尊庙に隣接して再建されたとみられている(东恩纳1950)。
広厳寺は天启4年(1624)春に再度焼失している。そこで同年7月1日より29日かけて再建した。再度荒廃したため、崇祯15年(1642)に祥岩长老に隠栖の场所として赐った(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺记)。康熙58年(1719)に册封使として琉球を访れた徐葆光(?~1723)は広厳寺について、「広厳寺。天尊庙の下にある。左右はすべて民家である。仏堂が数轩。庭の中には、桧と黄杨(つげ)とが刈込まれていて面白い。新しい建筑である。」(徐葆光『中山伝信录』巻第4、纪游、広厳寺。原田禹雄訳注『中山伝信录』〈榕树书林、1999年5月〉354页より一部転载)と述べている。また広厳寺から石门(上之蔵大通りの「久米(南)」信号の南侧の次の信号付近)まで156本の松の木が林立しており、その内の1本は平松で优れた名木と称されていたという(『琉球国由来记』巻8、那覇由来记、平松ノ下トイフ事)。
本尊は釈迦・文殊・普贤の木像で、昔から毎月仏供9升を王库から出した。三宝大荒神堂は廃堂となっているため、十王堂となった(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、万年山広厳寺、本尊)。
広厳寺は円覚寺の末寺であった(『琉球国由来记』巻10、诸寺旧记、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)。古来、正月1日と15日になるごとに、国王は必ず进香を広厳寺・円覚寺・崇元寺・长寿寺に行なってきたが、雍正7年(1729)にいたってこれを廃止した。乾隆26年(1761)に旧例に复した(『球阳』巻之15、尚穆王12年条)。
広厳寺は琉球処分までは存続していたが、やがて廃寺となった。戦前この地に池上病院が建てられたが、寺屋敷であった地を购入したものであったという(名幸1968)。
〔参考文献〕
・东恩纳寛敦『南岛风土记』(冲縄文化协会、1950年9月)
・名幸芳章『冲縄仏教史』(护国寺、1968年9月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕树书林、2008年6月)
・上里隆史『琉日戦争一六〇九-岛津氏の琉球侵攻-』(ボーダーインク、2009年12月)
再建された天尊庙(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)